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弁慶が書いたと言われる大般若経
弁慶が書いたと言われる大般若経

 大般若経(だいはんにやきょう)とは、皆さんよくご存知の「西遊記」に登場する唐の国のお坊さん玄笑三蔵法師(さんぞうほうし)が16年の歳月を費やして天竺(インド)から唐の長安に持ち帰り、翻訳して600巻の経典にまとめたものです。
 現荏耳にする「般若心経」はこの膨大な大般若経を要約したものと言われています。

 青森県南部地域には義経にまつわる大般若経がいくつか残っています。
 八戸の小田八幡宮では義経の家来達数人が書いたものが約300巻、小中野諏訪明神にも弁慶が書いたと伝えられるものが23巻残っているそうです。その他にも岩手県、福島県、東京都などにそのような伝説が残っている場所が何ケ所か確認されています。

 寺下にも弁慶自筆のものと伝えられている大般若経1巻が保存されています。大きさは約13.3mx25cmのもので最後に「大般若経五七六巻」と記されています。600巻あるうちの576巻目ということでしょう。

 昭和初頭に郷土史家の小井川潤次郎(こいがわじゆんじろう)氏は「階上村寺下、もと應物寺の別当をした桑原氏、いま潮山神社というその門前の家に弁慶の経文というのが一巻ある。
 昔はこの経文の文字を一字かむと痩(おこり:熱病の一種)が落ちるといって飲んだものだと言って、先のところに切りとったあとがはっきり残っている。
「切った文字も紙に包んでしまっておいたものであった。」とこの経文の事を紹介しています

桑原家に関する記録
暴風で倒壊した幻の五重塔
暴風で倒壊した幻の五重塔
推定樹齢300年の赤松
龍神の松
ひとつの根から幹が左右真横に
伸びた推定樹齢300年の赤松
奥南諸家聞老遺言録

 今寺下と云處前此處一圓に桑原郷と云、右大臣橘豊成弟仲滿か爲に讒せられ日向國に降りて三子あり正縄の裔奥州へ下り桑原左衛門入道と稱す。

 智恩院の十二世誓阿上人に相從うて入道す。

 廢帝の天平寳字八年江州に下り後奥州八戸階上郡近居に潜居す。
 故に桑原郷と云ふ。

 後海潮山応物寺階上山青龍寺建築等有てより寺下と稱す。

滋賀のなかの朝鮮
出典:朴鐘鳴編著「滋賀のなかの朝鮮」

 公姓の桑原氏は、朝鮮半島からの技術者である漢人集団の在地統率者として、桑原村主の系統を引く渡来系民族。

 桑原の姓は大和国葛上郡桑原郷(現御所市掖上)の地名に由来する。

新編武蔵国風土記
出典:大日本誌大系35巻 新編武蔵国風土記寄稿12

 桑原村は庄名及江戸よりの行程等総て前に同じに、按に【黒谷上人傅】に源空の弟子、武州桑原左エ門入道報恩の為、吉水に於て眞影を寫し、上人其意を感じ、自ら開眼し賜う云々と載たり。

 此桑原左衛門は當所の産にて、在名を名乗し人にや、もし然らんには最古きちめいにして、當時左衛門が領せし所なるべし。

 東西六町、南北一町余り、西は沼上村、北は十條村、南は那賀郡駒衣村東も同郡古郡村なり、用水は隣村沼上よりの出水を引来れり。

 民戸八軒、昔より戸田藤五郎の知行なりしに、子孫中務の時天明五年御料所となり、今も御代官支配す。

法然上人行状絵図 第三十七 より

 武蔵の御家人桑原左衛門入道(不知実名)と申けるもの、上人の化導をつたへきゝて、吉水の御房へたづねまいりて、念仏往生の道をゝしへられたてまつりてのちは、但信称名の行者となりければ、帰国のおもひをやめ、祇園の西の大門の北のつら(※ほとり)に居をしめて、つねに上人の禅室に参じて不審を決し、念仏をこたりなかりけるが、無始よりこのかた上没流転(※迷いつづけていること)して、出離その期をしらぬ身の、忽に他力に乗じて往生をとげ、ながく生死のきづなをきらむ事、ひとへにこれ上人御教誠のゆへなりとて、報恩のために真影をうつしとゞめたてまつりけり。そのこゝろざしを感じて、上人みづからこれを開眼したまふ。上人御往生の後は、ひとへに生身のおもひをなして朝夕に帰依渇迎す。かの入道、ついに種々の奇瑞をあらはし、往生の素懐をとげにけり。年来同宿の尼本国へかへりくだるとき、件の真影を知恩院へ送りたてまつる。当時御影堂におはします木像これなり。

澁澤敬三と桑原家

 澁澤敬三は、幕末から活躍した渋沢栄一という実業家の孫にあたります。

 渋沢栄一は幕末から明治に活躍し、数々の産業を興しました。日本の近代資本主義の父といわれる人で、澁澤財閥の創始者でもあります。澁澤敬三はこの人の孫として生まれました。

 澁澤敬三は、第一銀行(現みずほ銀行)の副頭取を務めたり太平洋戦争時の日銀総裁や敗戦直後に幣原内閣の大蔵大臣を務めたりなど、政財界で活躍した実業家です。また一方で、民族学(エスノロジー)や民俗学(フォークロア)という学問の形成に多大な貢献を果たした人です。民族学や民俗学は、いわゆる一般庶民の暮らしを明らかにする学問ですが、それを進めるために澁澤敬三はアチックミューゼアムという研究所を設立しました。

 澁澤敬三は1896(明治29)年に生まれ、1963(昭和38)年に亡くなりました。先ほど紹介したように民族学や民俗学、とりわけ物資研究を切り開いた研究者でした。そして、研究者であると同時に、戦前戦後の日本を支えていた実業家でもありました。

 『階上町史通史編Ⅱ』小舟渡の章には、昭和9年9月10日、澁澤子爵来校する。とあり、その時に大家族制の調査のため桑原家を訪れています。当時、桑原家には20人を超える同居人がいたそうです。
その時(昭和9年)の記念の8ミリフィルムが澁澤記念館で発見され、桑原家に贈呈されています。

西暦 年号 桑原家の家系
(古文書に出てくる名前)
潮山神社、寺下観音等の変遷
724 神亀
じんき
しんき
元年
○僧行基
 724年から728年までの5年間でが寺下の地に応物寺を創建し、観音像(高さ65cm)を彫むと伝えられている。
1108 天仁
てんにん
元年 桑原家(記録有り)
1109 2年 荘司(位だと思われる)
1242 仁治
にんじ
3年 普門院治清 ○応物寺
 全山雷火による山火事のため灰塵に帰したと伝えられる。
1246 寛元 4年 ○僧江山
 応物寺廃頽の記を録すると共に応物寺を再建したと伝えられる。
1626 寛永
かんえい
3年 寺下別当、条(名前)
1693 元禄
げんろく
6年 別当 普門院治清
1696 9年 別当 桑原氏
1712 正徳
しょうとく
2年 別当 痴丈 ○僧津要玄梁
 寺下観音に参籠し、「海潮山応物寺廃頽の記」を発見す。
別当 桑原三十郎
1715 5年 別当 沙門痴丈
1717 享保
きょうほう
2年 別当 桑原氏
1719 4年 別当 三十郎 ○八戸南部四代藩主黄信公
 寺下観音堂に鐘を寄進す。
1730 15年 ○寺下灯明堂落成供養
○八戸藩主より常灯明料として、毎年銭5貫文を別当野沢彦六に給されることになる。
1745 延享
えんきょう
2年 ○寺下五重塔落成(8月4日):高さ12m
○僧津要玄梁死亡(閨12月25日 66歳)
「前永平祇陀先住石橋玄梁大和尚禅師」
1754 宝歴
ほうれき
4年 別当 寺下甚之丞
天保百姓一揆書留  天保5年(1834)
天保百姓一揆書留  天保5年(1834)
1787 天明
てんめい
7年 別当 寺下甚之丞
1793 寛政
かんせい
5年 別当 寺下甚之丞
1797 9年 別当 寺下甚之丞
1802 14年 別当 桑原甚兵衛
1818 文化
ぶんか
15年 別当 桑原久右エ門
1832 天保
てんぽう
3年 別当 桑原久右エ門
1847 弘化
こうか
4年 別当 桑原久右エ門
1854 嘉永
かえい
7年 別当 桑原久右エ門
1857 安政
あんせい
4年 仮名主 寺下村 久右エ門 ○八戸藩士 蛇口胤年
 水運開発事業の願文額を寺下観音堂に納める。
別当 桑原久右エ門
根城南部以来の地頭
八戸藩主9代目仮名主
○八戸藩士 蛇口胤年
 水運開発事業記念の碑を市野沢街道の鴨平と寺下に建てる。
1860 万延
まんじゅ
元年
1861 文久
ぶんきゅう
元年 ○蛇口用水路
 寺下・石ノ倉両所より蒼前平の中央に達す。
1866 慶応 2年 ○蛇口胤年 9月8日死去(57才)
 蒼前平の開墾事業成功を見ないままに終わる。
1868 明治 元年 ○神仏分離令公布
 以後廃仏毀釈運動が盛んになる。
1869 2年 ○諸藩の版籍返還し、諸藩主を藩知事に任命す。
 南部信須八戸藩知事となる。
1871 4年 ○寺下観音堂を廃し、そのあとに潮山神社を建設し、村社となす。
1874 7年 ○寺下観音堂を建立を桑原家願い出る
1877 10年 管理者 桑原宮吉
1913 大正 2年 ○寺下五重塔
 暴風の為倒壊す。
1917 6年 管理者 桑原市三郎
1941 昭和 16年 管理者 桑原一郎
1954 29年 ○海潮山応物寺
 角柄折に再興される。
1977 52年 管理者 桑原三津夫
2003 平成 15年 管理者 桑原一夫
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